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【中国輸入ビジネス 入門】上海港の歴史1

上海港は、世界で最大のコンテナの取扱量を誇る港です。

上海の近郊の蘇州や杭州には紀元前から続く長い歴史があり、古い町並みや庭園など懐かしい風景が見られます。世界文化遺産として有名な蘇州古典園林は五代から清にかけて造られた庭園です。中でも蘇州最大の庭園・拙政園は蘇州4大名園のひとつです。園内を歩けば、古き時代にタイムスリップしたような感覚さえ生まれます。歴史をたどることで、「温故知新」(故きを温ねて新しきを知る)の諺にある通り、上海の価値をもう一度見直すことができるのではないでしょうか。成長を続ける上海港の歴史について、以下に分かりやすくご紹介いたします。

漁村時代

上海のあたりには、今から6000年も前から人が住み、漁業を中心とした漁師が住む漁村であったと言われています。日本では、まだ縄文時代です。その後、和人と呼ばれた日本人が、中国の歴史書に登場するのは、弥生時代中期の紀元前2世紀頃です。「漢書地理志」には、倭奴国(わのなのくに)の首長が後漢の光武帝から倭奴国王として認められ、金印(委奴国王印)を受けました。3世紀末の「魏志倭人伝」に見られる「奴国」は、九州の福岡とされています。

春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)には、中国には多くの国があり互いに争っていました。

長江のあたりには、呉、越、楚という大国が存在し、互いに争っていました。前漢の劉向(りゅうきょう)の著作「戦国策」の中に、こうした弱肉強食の戦国の世に強く生きた遊説の士の言説、国策、献策などの有名な逸話が、たくさん出ています。

蘇秦・張儀などの権謀術策を駆使した策略は、現在でもビジネスマンの座右の銘となっています。蘇秦の「鶏口となるも牛後となることなかれ」という言葉は、勇気と独立心を奮い立たせます。

この頃の上海周辺は、楚(紀元前11世紀~前223年)の支配下でした。楚の宰相であった春申君(?~紀元前238年)が淮北と呼ばれる12県を治めていましたが、その後、江東の地(長江下流域)に移りました。そのため、この上海のあたりは「申」と呼ばれていました。

春申君は戦国時代に楚を立て直した人物です。「食客三千人」と言われ、優れた人物を集めていました。この「申」と呼ばれた土地は、長江と黄浦江との合流点に位置し、沼や湿地などが多い漁村でした。

運河の発達・中国の皇帝は物流の天才

紀元前221年に秦(紀元前778年~前206年)が中国を統一し、春秋戦国時代が終わりました。まだ統一前の247年の時のことです。紀元前秦の始皇帝が、13歳で秦の王になった時、鄭国という大臣が関中の黄土地帯を開拓するために渭水の支流の水を引いて灌漑用水を作ることを献策しました。

用水路は十数年かけて立派に完成し鄭国渠(ていこくきょ)と言われ現在も残っています。長さは約120キロメートルあり、灌漑地域は、約7万ヘクタールになります。渭水地方の平原地帯を潤し農耕地帯に変えました。これにより秦は富強となり、中国統一の原動力となったと言われています。

また始皇帝は、紀元前214年に嶺南(今の広東・広西)から南越を征服しようと軍を派遣しました。その時には、華中と嶺南との間に運河を建設しました。運河は軍を派遣する機能と同時に南越の象牙や真珠などの産物を華北にもたらすことになりました。運河を使って、物資を運ぶという方法は、戦略的にも優れた方法です。

ロジスティクスという言葉は、現在はサプライチェーン・マネージメントを意味する言葉です。生産地から消費地までの全体的な物流の最適化をはかるものですが、もともとは軍事物資の供給を表す軍事用語でした。

軍事用語としては、作戦計画にもとづき兵器や兵隊を戦地に運び、食料や弾薬の補給を行うのがロジスティクスです。補給がうまくいかなければ、戦争は継続できなくなります。始皇帝は、戦略的にも優れた人でしたが、長期的な戦争や広い地域に展開する戦闘の難しさをよく理解していた人と言えます。万里の長城を築いたのも始皇帝ですが、長城によって防衛と戦闘の両方の機能を持ち合わせ、たくさんの兵員を移動させるのに合理的なシステムです。何事にもスケールの大きい中国ですが、その根幹にあるものは合理的で実利的な思想です。その思想は、現在の上海港の建設にも表れています。

その後、隋の文帝の時代、584年に江南地方と首都大興城(長安)とを結ぶ大運河の建設をしました。長安と黄河を結び、次に淮水と長江を結びました。これにより、豊かな穀物の生産地の江南地方と長安とを結び、首都圏の人口増加を支えることができました。604年には、隋の煬帝(ようだい)が、黄河と淮河を結ぶ運河の建設を行い、長江から長安に至る運河が完成しました。

漁村から港町に

唐の時代(618年~907年)に黄浦江流域に華亭県が設置され、「上海浦」という村が設置されました。村は漁業を営む漁師が住む小さな漁村でした。

宋の時代になると、黄浦江、長江の河口地としての立地条件は、中国の内陸地と東岸各地を結ぶ拠点として最適であったため、やがて物流の拠点として、発展していきました。

当時の宋船の構造を見ると、大量の物資を運ぶのに適した船型に改造されていきました。外洋航海に適した大型の船型になり、中国から直接日本に航海できるようになりました。船型も現代の船の形に近い流線形となり、大きな波の影響を直接受けないように改良されています。居住空間も大きくなり、長期航海に適したものになっています。

南宋時代には増々物流が増えて、上海の港は栄えていきました。南宋時代の13世紀後半には、貿易の監督官庁が上海に設けられ、さらに13世紀末には、上海県の県都として、市街地が整備されました。

日中間の交易の歴史

 

日本と中国の間では、3世紀頃から、大陸から多くの渡来人が仏教や優れた文化を日本にもたらしました。渡来人のルーツは、中国の黄河流域、山東半島、揚子江流域、満州、シベリア、朝鮮半島から渡ってきたと言われています。

日本からは推古天皇の時代に、600~618年の18年の間に、聖徳太子が遣隋使を3~5回派遣されたと言われています。隋(581年~618年)の政治制度が日本にも取り入れられ、日本の政治制度の根幹となりました。

隋が滅び唐(618年~907年)の時代になると、唐は隋の律令制度を継承し、均田制、祖調庸制、府兵制を基礎とする中央集権国家を整備し、科挙による官吏登用制を実施して官僚体制を発達させました。

日本からも遣唐使が明の国に派遣されました。遣唐使のルートとして、北路と南路があり、第1次の630年から第20次までの838年の最後の使節まで20回も行われました。

南路は寧波、杭州を通り、唐の国に入りました。遣唐使船には、政治家、官僚、僧などが同行し、唐の政治制度や文化、仏教などの経典が日本にもたらされました。

宋(960年~1279年)の時代には、960年に趙匡胤(ちょうきょいん)が宋を建国し、皇帝の独裁制を樹立しました。第2代の太宗は979年に中国を統一し、都を開封に定めました。唐末から五大の節度使による武断政治は解体され、中央集権国家となりました。

貨幣経済が発展し銅銭である宋銭が大量に鋳造されて、国内に流通しただけでなく、海外にも流出していきました。このような経済発展を背景にして、中国商人による海外との交易が行われ、インド洋にまで船で行くようになりました。広州、泉州、明州(寧波)、温州、杭州などの港町が栄えました。

宋は、広州、泉州、明州(寧波)、杭州(臨安)、温州などに市舶司という役所を置き、商人の出入国手続き、貨物の検査、禁制品(武器など)の取り締まりや徴税を行いました。このうち明州は、日本からの交易船の入港地として指定されていました。

日本と宋の間では、遣唐使が894年に廃止されてから、朝廷から使節が贈られることはなくなりましたが、貿易は盛んに行われました。日本の貿易港としては、敦賀(つるが)港や博多港が貿易港となりました。平安時代の平家は、日宋貿易に着目し、舶来品を朝廷に献上し、高い地位を得ることに成功しました。

平氏が政権を握ると、伊勢から産出する銀を主要物資として、中国の陶磁器、絹織物、書籍や文具、香料や薬品、美術品、宋銭などを輸入し、朝廷への献上品として使い、権力を拡大していきました。宋銭はその後の日本経済にも影響を与え、貨幣の流通をもたらしました。

平清盛(たいらのきよもり)は、日本で最初に博多に貿易港を築き、宋との貿易を推進しました。1173年には、現在の神戸港の一部を拡張し、宋との正式な国交を開いて貿易振興策を行いました。

当時の宋は、遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などからの侵入に備えるために、火薬の原料となる硫黄を求めていました。日本からも硫黄が大量に輸出されました。

平家の滅亡後、日宋間に正式な国交はなくなりましたが、鎌倉幕府は民間貿易を認めたため、博多には多くの宋人が多く住むようになり、博多は国際貿易港となりました。宋の商船は、福建や寧波から日本の博多に来航しました。

南宋の時代には、日本との間には民間貿易が続き、1年に40~50隻の船が中国に渡りました。宋の滅亡後も、日元貿易は継続して行われました。

元時代(1271年~1368年)に、綿花の栽培が盛んになり、明時代(1368年~1644年)には、上海の綿織物の手工業が主要産業となりました。また、イスラムの世界とも交易が盛んとなり、広州、泉州、明州、温州、杭州などの港と往来が始まりました。

軍事戦略の拠点として

明の時代に、大航海をした人物が鄭和(ていわ 1371年~1434年)です。明の武将で12歳の時から、永楽帝(えいらくてい)に宦官として仕えました。軍功をあげて重用され、1405年から1433年まで、7度の大航海の指揮をとりました。

鄭和の船団は、明州を出港し、東南アジア、インド、セイロンからアラビア半島、アフリカまで航海しました。鄭和の大艦隊は、総員27800名と言われています。大型船で62隻の大艦隊でありました。

これにより、各地の国々やそれまで交流のなかった東南アジアの諸国からも次々と明に朝貢に訪れたので、東西貿易は増々盛んになりました。

清(1644年~1912年)の時代に入ると、康熙帝(こうきてい)は1685年に4か所の貿易港に「海関」を置きました。上海の「海関」は「江海関」と呼ばれました。他の3港は寧波、厦門、広州の港です。ところが、1757年に清朝は外国貿易を広州一港に限定したので、上海港は貿易港として使われなくなりました。

近代貿易港の拠点として

上海港が再び貿易港として、急速な発展を始めるきっかけとなったのは、清朝が、アヘン戦争に負けてからです。アヘン戦争が起きるまでの経緯を次に説明いたします。

18世紀末にイギリスでは、産業革命により工業が発展し、工業製品を海外に輸出するために海運業が発達しました。イギリスはアジアに進出し、中国との交易を推進しました。その当時は、中国の開港地は広州だけでした。アメリカも独立戦争に勝利した後、1784年から中国との交易を推進し始めました。

1793年、イギリスは広州以外にも貿易港を開くことを求めました。当時82歳の乾隆帝(けんりゅうてい 1711~1799)は、老人でしたがイギリスに屈することなく、中国に対する支払いは銀のみを認めるということだけで、広州以外の港の開港について断固、拒否しました。

乾隆帝は、治世にも優れていましたが、周辺諸国との戦争も積極的に行い、10回も遠征しました。チベット、ネパール、ウイグル地区、ベンガルなどに幾度となく出兵し、国土を広げました。そのため、その10回の遠征を十全武功と言って誇り、彼自身、十全老人と呼びました。年をとっても、気力十分でイギリスの要求をはね退けたのです。

当時のイギリスは、中国から大量の茶、陶磁器、絹を輸入していましたが、アメリカの独立戦争で、多額の戦費がかかりました。そのため銀が不足し、中国に対する支払いができませんでした。

そこで考え付いたのが、インドの植民地で栽培したアヘンを中国に輸出することで、資金を調達することでした。アヘンをインドから中国に運び銀を確保し、その銀を輸入の支払いに充てるという三角貿易を成立させました。

その背景にあったのは、イギリスの東インド会社です。1773年にベンガル阿片の専売権を獲得し、1797年には製造権も獲得しました。安くアヘンを手に入れ、高値で中国に売りさばく商法で、イギリスは巨大な利益を得たのです。清政府は、阿片貿易を禁止しましたが、イギリスは中国商人を買収し、官憲にも商人を通じて買収を行いました。そのため、阿片貿易は拡大し、従来のインド綿花の取引額をはるかに上回ることになりました。

アヘン戦争

清政府は1796年にアヘンの輸入を禁止しましたが、アヘンの密貿易は年々拡大し、中国社会にアヘンが蔓延しました。1839年、清政府は林則徐を大臣に任命しアヘンの密貿易の取り締まりを強化しました。これに対し、イギリスは武力で対抗しました。1840年、イギリスは清国沿岸に侵攻し、第1次アヘン戦争を始めました。近代的な兵器を持たない清国は、この戦いに敗れ、1842年イギリスと不平等な南京条約を結びました。

この結果、香港島の割譲や5港(広州、厦門、寧波、福州、上海)の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失などが決められました。この結果、アメリカ、フランスの国々とも同様の条約を結ぶことになりました。

1842年の南京条約によって、英、米、仏に対し、上海に租界と呼ばれる居留地が設けられました。

その後、1856年、珠江に停泊していた「アロー号」のイギリス国旗が、中国兵によって引き下ろされ、船員が海賊容疑で逮捕されました。当時、イギリスは、中国との条約改定交渉に難航していました。

イギリスの中国駐在領事のバークスは、強引にアロー号問題を、強引に重要な事件として、イギリスに報告し開戦を促しました。そこで、イギリスは第2次アヘン戦争を起こし、フランスとともに広州、天津を制圧し、1858年に天津条約を締結しました。

しかし、清国はこの条約の批准を拒否したので、イギリスは北京を占領し、強引に批准を認めさせました。それに加えて、天津を含む11港の開港、九龍半島の割譲を認めさせる北京条約を締結しました。(1860年)

中国国内では、1850年に太平天国の乱が勃発しました。1853年には、小刀会という秘密結社が蜂起し上海県を占領しました。上海の租界にいるイギリス軍は、常勝軍を組織し租界を中心として、太平天国軍と戦いました。

太平天国軍が上海に迫っていた1862年に、日本の長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)は、この光景を上海で見ていました。彼は貿易視察のために派遣されていたのです。高杉は上海に1862年の5月から約2か月滞在し、上海港を視察することができました。

高杉晋作の報告によれば、当時、上海港には外国船が300~400隻、軍艦は10隻以上停泊していました。多くの中国人が使役に使われ、みじめな扱いを受けていました。

上海でのイギリスの過酷な支配を見た高杉は、日本が同じような運命にあることを強く認識しました。帰国後、高杉は討幕のために「奇兵隊」を組織し、1864年に挙兵しました。しかし、1867年4月14日、結核のため29歳で亡くなりました。

日本は討幕が成功し、1867年に大政奉還(たいせいほうかん)が行われ、徳川幕府は政権を天皇に返し、明治政府が誕生しました。明治政府は、日本の近代化を進めるために、たくさんの人々をアメリカやヨーロッパに派遣して、近代技術や法律、医学の導入や軍事力の強化を推進しました。

日本は急速に近代化を進め、対外進出を拡大していきました。1872年に琉球に進出し、1879年に琉球を併合し、沖縄県としました。清国はこの日本の行為に反発しました。

その後、朝鮮半島に起きた政治問題から、日清戦争(1894年~1895年)に発展しました。その後、欧州列強の中国に対する軍事的な侵攻が増々盛んとなり、ロシアが、旅順や大連を租借、満州を占領、イギリスは、長江沿岸、九龍半島、威海衛を租借、フランスは広州湾を租借、ドイツは青島を租借、日本は台湾を獲得するなど、清国の領土を脅かしていきました。

しかし、上海人は、この苦しい100年にわたる租界時代を経験しましたが、新しい海外の文化、生活様式に接し、列強の圧迫にも屈することなく、独立心や冒険心が旺盛になりました。

太平天国の乱の後、上海の重要性が増し、中国最大の貿易港として発展していきました。辛亥革命の拠点ともなり、後には1921年に中国共産党の結成大会も上海で開催されました。これ以降、上海は歴史を動かす拠点になりました。

次章は上海港戦後の歩みを紹介いたします。