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【中国輸入ビジネス 入門】日本の主要港紹介~横浜編~

世界とつながる海の玄関

横浜と言えば港町のイメージを抱く方も多いのではないでしょうか。古くから栄えてきた港町。臨海部には緑が広がり、観光スポットや商業施設も多く、賑わっており、港が人々の生活に近い印象を受けます。ドラマや小説の舞台になることも多いですし、「赤い靴はいてた女の子…」の歌に始まり今も昔も横浜が舞台となっている歌も本当に多いですね。古くから人々に親しまれてきた国際貿易港、横浜港の歴史を感じます。

横浜港は東京湾の北西側に位置しており、東は川崎港との境界である境運河から、京浜工業地帯の鶴見地区、根岸湾を経て、南は横須賀港の境界である金沢区八景島に至る範囲で、港湾区域は横浜市の面積の約6分の1にあたるほどの広さです。

北側、西側、南側を適度な起伏がある丘陵に囲まれているため、年間を通して風や波などの影響が少なく、自然条件によって荷役が制限されることが極めてまれな天然の良港です。

また、もともと十分な水深を持ち土砂の堆積も少ないことから古くから大型船の入港が可能でした。横浜港はこれらの恵まれた自然条件を活かし150年以上の古くから栄え、現在は国際戦略港湾及び国際コンテナ戦略港湾の指定を受けている国内トップクラスの港です。

横浜港はあらゆる貨物を取り扱っている総合物流港湾で、新港埠頭、大さん橋、山下埠頭、本牧埠頭、大黒埠頭、瑞穂埠頭等の埠頭があります。

新港埠頭、大さん橋は国際船客ターミナルとして機能しており、貨物については本牧埠頭、大黒埠頭、南本牧埠頭を中心にコンテナ、自動車、石油類、穀物などを取り扱っています。

新港埠頭には、大規模な海上災害発生時に災害応急対策活動の中核拠点となる海上保安庁の横浜海上防災基地があります。また横浜ノースドックと呼ばれる在日アメリカ陸軍・海軍の港湾施設があることも特徴です。

臨海部の緑地や商業施設の多さも横浜港の特徴と言えるでしょう。陸上から見ても海上から見ても緑が多く美しい印象で、人々の憩いの場となっています。

ひときわ目を引くのが日本丸メモリアルパークにある練習帆船日本丸です。国指定重要文化財にも指定されており、帆を広げた姿は本当に美しく「太平洋の白鳥」と呼ばれ、歴史ある横浜港にふさわしい姿だと感じます。日本丸メモリアルパークでは吹奏楽演奏会、シーカヤック、フリーマーケット等の開催もあり賑わいを創出しています。

横浜港をテーマにした博物館と、横浜の港と船を愛したデザイナーで画家の柳原良平アートミュージアムがある横浜みなと博物館や、横浜開港資料館、赤レンガ倉庫、横浜港を一望できる横浜港シンボルタワーなど、横浜港には港そのものを観光資源とした施設が数多くあります。

 

横浜港のあゆみ

現在の伊勢佐木町から吉野町駅にかけての一帯は、かつて、釣鐘の形をした浅瀬が広がっていました。その浅瀬の一番海側に細長い土地があり、横浜村と呼ばれていました。江戸時代にこの浅瀬を埋め立て新田とし、開港以降市街地となっていく土地が作られました。

嘉永6年の黒船来航後、安政5年に江戸幕府は日米修好通商条約(安政五カ国条約)を結び、神奈川の開港が定められましたが、神奈川宿にある神奈川湊は東海道沿いであったため幕府は街道から外れた横浜を開港場としました。諸外国は反対し領事館を神奈川宿に置きましたが、幕府は築港を進め、東・西波止場の建設、横浜港に置いた居留地が発展するなど既成事実が積み重なり、横浜港の開港が認められました。

横浜港は開港すると急速な勢いで発展し、たちまち国内最大の貿易港となりました。明治時代には鉄桟橋(大さん橋の原型)、赤レンガ倉庫2号館などが完成します。当時の輸出品は生糸、蚕種、茶など、輸入品は綿織物などが中心でした。

世界有数の大都市であった江戸の最寄り港であること、輸出品の中心である生糸、綿織物、茶の産地が近かったこともあり、横浜は生糸とそれに関連した商品の取引で世界に名を馳せる港に成長していきます。

1859年に横浜の港が開かれた頃、港町横浜には世界各地の人々が訪れ、中国の広東・上海などからも大勢の人がやってきました。そうして形成されたのが、東アジア最大規模のチャイナタウンである横浜中華街です。広東は華僑の故郷と言われ、古くから海外に人々を送り出した土地。横浜華僑の多くは広東の出身で、今も中華街に広東料理が多いのはこのためです。

また、横浜市は上海市にとって初の海外友好都市であり、1973(昭和48年)の締結以来、市民交流や訪問団の相互派遣、スポーツ、文化、芸術、経済、技術交流など、幅広い分野で連携・協力を続けています。

近代に入り、大正時代には赤レンガ倉庫1号館や新港埠頭などが完成します。新港ふ頭は日本で初めての本格的な係船岸壁方式の港湾施設で、13隻もの貨客船や貨物船が同時に接岸でき、上屋、煉瓦倉庫、クレーン、発電所などが整備された最新鋭の埠頭として注目を集め、昭和30年代まで横浜港の中心的な役割を担いました。

大正12年の関東大震災により横浜港は壊滅的な被害を受けます。震災復興計画の中で、高島埠頭桟橋、山下公園、横浜税関、臨海工業地帯などが完成し道路の拡張なども行われ、町の基盤が整備されました。

昭和に入ると京浜工業地帯が形成され、日産が本社工場を置き自動車の生産を始めるなど、これまで生糸貿易港であった横浜港は工業港へと変わっていきます。

第二次世界大戦中、横浜港は軍の管理下に置かれました。

そして終戦後、横浜港は施設のほとんどをGHQに接収され、その期間は11年間にも及びました。

接収解除により外国貿易が回復すると、輸入の激増により横浜港の外国貿易量は戦前のピークを上回るほどになりました。埠頭の岸壁などが不足し、係船できない貨物船が港内で渋滞する事態が数多く発生することとなり、岸壁の拡張工事や新たな埠頭の整備が急ピッチで進められます。こうして大黒町埋め立て、本牧埠頭埋め立てが行われ、次いで山下埠頭が完成しました。

戦後の主な輸入品は金属機械工業品(鉄鋼、自動車、電気機器)、化学工業品、雑工業品等、輸入品は原料品(石油)、食料品(麦類、雑穀、豆)、加工用機械等となり、横浜港は工業港としての性格を強めていきました。

昭和43年フルコンテナ船が横浜港に初入港し、昭和45年にはコンテナ専用埠頭である本牧ふ頭が完成しました。

平成に入ると埠頭や周辺の商業施設などが次々と完成し、臨海部には重化学工業を始めとする産業集積などが進み、交通網のさらなる整備が進められ、横浜港は日本を代表する国際貿易港、工業港として成長していきます。

現在の輸出品は自動車およびその部品、産業機械、染料等化学工業品、鋼材などが上位を占めており、特に完成自動車は横浜港の主力取扱貨物となっています。

進化する横浜港

平成29年横浜港は国際旅客船拠点形成港湾に指定されました。令和元年には新港埠頭客船ターミナル「横浜ハンマーヘッド」が供用を開始したことをきっかけにクルーズ船寄港数が過去最高となり、クルーズ船寄港の賑わいが広がりました。横浜港は東アジアのクルーズ客船発着拠点としての役割も期待されています。

令和3年には南本牧埠頭において世界最大級の水深20m岸壁を有する新たなコンテナターミナル(MC-4)の供用が開始され、1万TEU級以上の大型コンテナ船が入港することができるようになりました。世界最大のコンテナ船社であるデンマークのマースクラインが日本国内最大の物流拠点を南本牧埠頭に構えていることからも、横浜港が日本の国際貿易港として重要な位置づけであることが分かります。

横浜港のコンテナ取扱量は世界的な物流量から見ると上位とは言えませんが、歴史と伝統に裏付けられた高度な荷役効率や正確性等は、世界から高い評価を得ています。

令和3年、世界銀行と調査会社「IHSマークイット」が世界351のコンテナ港湾の効率性について、船舶の滞在時間や荷役技術など様々な指標で比較したランキングを発表し、横浜港が1位に選ばれました。

貨物取扱量では世界トップクラスである上海・深セン・青島などを擁する中国の港湾には規模では及ばないものの、効率と技術で世界に迫る横浜港。日本の物流を支える拠点としてこれからも進化を続けてほしいですね。

港とともに成長する街

「みなとみらい21事業」は昭和58年から現在まで続く、横浜のウォーターフロントにおける新しい都心づくりの計画で、開港以来の都心である関内・伊勢佐木町地区と、戦後から急速に都市化した横浜駅周辺地区、そしてその二つの地区に挟まれた臨海部の一体化・再整備を目指すもので、現在も様々な開発が進められています。

今年7月にはみなとみらい21地区の「カップヌードルミュージアムパーク」に最近話題のグランピング施設がオープン予定で、グランピング用のテントやカフェ、バーベキュー設備や展望デッキが整備されるようです。

開港150年以上歴史を持つ横浜港。いち早く外国文化を受け入れて独特の文化を築き、日本と海外を結ぶ窓口として重要な役割を担ってきました。

現在、横浜港は「国際競争力のある港」、「市民が集い、憩う港」「安全・安心で環境にやさしい港」を3つの柱としています。

今後、市民の憩いの場であるウォーターフロントと、国際的に重要な物流の拠点としての機能が美しく融合し、業界からも一般の人々からも愛される、更に美しい港になることを期待しています。